昭和44年9月30日 朝の理解
御理解第42節「これほど信心するのに、どうしてこいうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる」
そこからおかげが受けられるという信心とは、どういうような信心であろうか。「これはまだ、自分の信心が足らんから、まあちっとがんばらにゃでけん。まあちっと一生懸命にならにゃでけん」ということに違いはないですけれども、そのおかげの受けられるもんでなからなきゃならない。ね。おかげが伴う、それからの信心でなからなきゃならない。どこにその、その焦点を置くかということになる。ね。
一番始めの「これほど信心するのに」とこうある。そのこれほどにということは、どういうふうにこれほどであろうか。ね。ここんところを吟味、見当していかなきゃならんとこですね。
よく信心をさして頂いて、ある方達が、「ほんとに信心を頂いておるということは、有り難い。ほんとに有り難い。ほんとに信心の分からん者ばっかりは、しようがない。信心を頂いておるということは有り難い」というように、有り難いと言われる。だからその、信心をしておるということが有り難い、ということは、どういうことが有り難いのであろうか。おかげを受けたから有り難いのであろうか。ね。信心さして頂きよったら、ね。それこそ、どこから湧いてくるか分からんほどしの有り難さが湧いてくるから、有り難いのだ。
よく「悦に入る」ということを申します。ね。「悦に入る」悦とはこの悦びを書いてあるですね。自分だけニヤニヤしてるというのです。ね。この頃信心にはね、そういうような人が多いようですね。悦に入っておる。物事に悦、悦ということは、「よろこび」に違いないですけれども、信心で、信心の喜びというものは、そういう悦に入っておるというものではない。ね。心の中にでニヤニヤしとるというものではない。ね。
その程度の喜びを頂いてです、その程度の信心で「これほど信心するのに」ということは言えないのです。ね。毎日お参りしよりますも、何年間続けて参りよりますと言うだけで、「これほど」ということにもはならない。ね。
私は、「これほど」ということの信心を自分で確かめるということですね。
だから、自分が、この、悦んでおるというか。悦に入っておるというのは、確かに、自分が悦んでおり、自分が悦んでおるとのようにある。ね。自分で作った悦びなんだ。これを悦に入るというわけ。
信心の喜びというのは、昨日、生誕祭の後に、私がご挨拶を申しました中にもお話しとりますように、「許されての喜び」でなからなければならない。ね。言うなら、神様に与えられる喜びでなからなければならない。
一人よがりの信心。という信心ではダメ。ね。神様に許される喜びというものは頂けません。どこから湧いてくるか分からん。どうしての感激か分からん。ね。そういう喜びを願わして頂いての信心。
私達の心の中に、これだけ信心したけれども、これしこ一生懸命なったけれども、おかげが受けられなかったといったようなものが、もし、私どもの心に少しでもあったら、そういうふうに思ったら、まあそれこそ、一心の信心を、これはまだ信心が足りぬと思うて、一心に信心をしていかなければならんけれども、ね。そんならあの、どこに焦点を置いて、一心の信心を進めていくか。
今まで、一遍参りよったと、二遍参るか。今んとお参りをするだけであったから、いろいろ御用さしてもろうて、お参りをするか。今まで百円お供えしよったと、二百円お供えしてお参りをするか。ね。まあ様々に工夫してみるのも良かろうけれどです、ね。私は、一番の焦点を置かなければならないのは、「自分の喜び」だとこう思うんです。
自分で信心して、なるほど信心を有り難い、とこう思うが、その有り難いその内容である。それは、ただ自分のは、一人よがりの信心である。ただ悦に入っておるというだけの信心である。うん。
そんなら、どうしたならば、神様に与えられるような喜び。ね。どうしたならば、神様に許されて喜ばれる信心。ね。そういう、例えば、信心を目指して、「これはまだ自分の信心が足りぬからだ」と「一心に信心を進めていけば、そこからおかげが受けられる」というのはそういうところに、焦点を置いての信心でなからにゃいかんと思う。今のことがよう分かるでしょうか。ね。
「これはまだ自分の信心が足りぬからじゃ」と言うて、「これは、まあちっとがんばらにゃいかんぞ」と。「自分だけの信心じゃ足りんけん、お前も参ってくれ」と、例えば家内に頼んで、夫婦が一生懸命信心をする。ね。「今まで、ね。御用( ? )出てなかったから、これは、御用にまあちっと打ち込まにゃいけん」と、例えば、そういうことにはなるほど、打ち込んでみなければなりませんけれども、そういうことだけではです、ね。私は、これはまだ信心が足りぬからと、そこから一心の信心をしていくという、一心の信心にはならないと思う。ね。
「一心の信心」というのはですね、そういう「これはまだ私の信心が足りない」というところをです、ね。神様に与えられる喜び。神様に許される喜び。そういう喜びが頂けるというところに焦点を置かなきゃならん。そんなら、どういう信心になってなからなければならないかと。いわゆる一心である。言うならば、私と神様が一体になって喜べれる信心が、「一心の信心」というわけである。
神様と私が一つの心になれる。ね。
昨日の私が、お話の中にも申しましたように、ね、私の少年時代にね。私の足が霜焼けで、こう腫れ上がっておるところを友達に踏まれた。もうそれこそ飛び上がるように痛くて、相手を叩こうと思た時に、じいが言うてくれておった、いわゆる、その「なんまんだぶ、なんまんだぶ(南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏)」を、が心の中に起こってきて、ね。本気で痛い。痛い、叩こうと思ったけれども、その振り上げとる手をそなままにして、「なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ」とこう言うたところにです、どこから湧いてくるか分からない感動というものが、その時は気が付かん、もちろん子供の事で。後々で考えてみればみるほどです、「はあ、あれが神様の感動であったなぁと今にして思う。」という話を昨日いたしましたですね。
いわゆる、それは、私の感動ではなくて、神の感動であった。ね。叩かれた。だから叩き返す。ね。そういう、私は、生き方からは、いわゆる「神と一心になれる喜び」というものは生まれてこない。あれがああ言うたから、こちらもこう言うて返さなければ。向こうが向こうなら、こっちもこっちといったような考え方からはです、決して、一心に、神と一心になることはできない。
神様の心というのは、ね。例えば、叩かれた。けれどもそこに、「なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ」とこう、その( ? )を唱えさしてもろうたということ。私は。そん時にです、神と一心になれておる、と私は思うんです。ね。そこに、「神の喜び」「神の感動」が、私の心の中に通うてきた。
だから、「神の感動」「神様のお喜び」その喜びが、私どもに返ってくる。そういう喜びをね。一心の信心から生まれてくる喜び。一心とは、「神と氏子とが一つになって喜び合える」
私、今日御神前に出らせて頂きましたらね、あの、★『抱茗荷』という茗荷の花をこう二つ抱き合わした、こういう形の紋がありますよね。私のは、この梅鉢の紋ですが。この紋です、いわゆる。ね。抱茗荷。
それが多くの人の信心の喜びというのはね、片一方の喜びがない。片一方だけの喜び。茗荷の喜び。これはね、だから、悦に入っておるという者だけなんです。一人だけの悦びです。「信心ちゃ有り難かぁ」ち言いよると。神様は有り難いと思てござらん。その証拠には、その喜びがひとつも思わない。その喜びが光にならない。その喜びはおかげに繋がらない。ね。
もう絶対にね、『真に有り難いという心、すぐにみかげのはじめ』と仰るが、その真に有り難いというような、有り難いというものはね。神様が感動ましますような喜びが、私どもに返ってきた時に生まれてくるのが「真に有り難い」という喜びなんです。ね。ただ「信心ちゃ有り難かなぁ。親先生の話頂いとって有り難かぁ」ち、こう言うとは、片一方だけの茗荷。片一方だけの妙賀というのは、賀びの妙と書いてある。まあ文字って書くならね。
いわゆる悦に入っておるだけなのだ。自分だけがニヤニヤしておるだけなんだ。ね。はあ、この信心さしてをもらえばもらうほど有り難い。お話を頂きゃ頂くだけ有り難い、と思う、その有り難いと思う心が、次のお参りのエネルギーともなる。その有り難いと思う心が、御用に現れる。その有り難いと思う心が、今まで苦しいと思うておった事の中にでも、苦しい事ではない、これは有り難いんだと。「このようして神様がお鍛え下さるんだ、お育て下さってあるんだ」というように、そこにお礼の心、喜びの心が出てくる。そういう時に、神が感動ましますのである。ね。
ただ、喜びや健康である事が有り難かと。
昨日の、ここでお年寄りの方達に、あのように、まあいわゆる敬老会です。年寄りを敬う会。ここの敬親会の方達が中心になって、それから、ここの部落の年寄りの方達皆集まられてから。その事のお礼を申させて頂いておる時に、昨日申しましたように、あの、★大きな(たっちゃき?)をね、頂いたんです。(たっちゃき?)という豆ですよね。もう大きな豆。
今は、あんなあんまり、もう作りもしませんですけれどね。昔はよく(みそぼね?)なんかに使いましたから、どこにも作ってあった。今頃は作りません。あれを頂いて思わして頂く。
言わば、もう七十以上の老人の方達ですから、ね。もう若いもんのようなわけにはいかんけれども、ここまで皆、やはりお参りができておられる。そしてその会に、まあサービスを受けておられる。だから、サービスを受けておられるということだけには、まあ、「有り難か」とか思うてもですね、ここまで来れたということ。まだ歩けておるということ。動かして動かれておるということ。目が見えておるということ、聞こえておるということ。おかげであのおもしろい漫才やら、浪花節やらが、その、聞いたり見たりできるということ。
のにです、私はほんとに、どれほど皆さんが喜びを感じておられるであろうかと。ね。そこんところをです、例えば健康であるということ。ね。しかも、その喜びがですね、そのおかげを受けておるというその喜びが、ね、次の例えば御用なり、「信心のエネルギー」ということを申しますが、なっていくような、私は喜びでなからなければダメだと。
ただ、だから、んなら、話を聞いて「ほんなこそげんよ。そうですたい、こうやって目も見えておるし、耳も聞こえておるし、おかげで浪花節も聞かれる、漫才も見られる。ほんなこ、そら有り難いことたい」と言うだけでは、やはりこれは、悦に入っておるだけなのであるから、ね。そういうおかげを受けておるということがです、ね。やはり次の光になっとらなければならない。自分の( ? )をものになっとらなければならない。ね。
どんなに一生懸命お参りをしておっても、一生懸命修行しておっても、神様がね、横を向いてござるような感じの信心がありますよ。ひとつも神様に通うていない。通じない。ね。通じない証拠に、ね、「神様から与えられる喜び」というものに触れることができない。ね。
神様がお喜び頂けれるような信心。そこで、んな日頃頂いておる、んな神様がお喜び頂けれる信心とはどういう信心かと。ただ拝む事だけが能ではない。ただ水をかぶったり修行したりすることだけが信心じゃないぞ。ね。ただ話を聞いて悦に入っておるだけじゃいかんぞと。
そこから新たな信心の練り出しができて、ね。神様の心にピタッと合う。いわゆる、神様も一緒に感動ましますほどしの、私は信心を目指さして頂いて、そこを、言うなら研究して、ね。お話を頂いて、そこからヒントを頂いて、「はあ、私のはここが欠けておった、間違っておった」と改まった次の信心にならしてもろうて、それを改まり改まりしていくところから、ね。神と一体になって喜べれる。いわゆる『抱妙賀』である。ね。
この抱妙賀的喜びでなからなければ、ほんとうの信心の喜びではないということ。ね。そこから、んなら、「これほど信心するのに」ということがですたい、言えなくなってくるわけなんです。ね。
自分のは、なるほど時々有り難い。それこそ、じっとしておられんぐらいに有り難い時もあるけれども、あれはただ自分の悦に入っておるだけであった、と悟らしてもろうて、神様が一緒に喜んで下さるほどしの喜びではなかった。それには、神様のほんとの思いに応えるという信心ではなかった、というところに悟らしてもろうて、そこからです、『いちだんの信心を進めて行けば』と仰る。そういう信心に向かって、いちだんと信心をしていけば、ね、そこからおかげが受けられる。ね。
そこからおかげが受けられるという、一心の信心とは、神と一心になれるほどしの信心を「そこからの信心」というのであり。私どもが、この御理解に、を頂かしてもらう。「これほど信心するのに」という、「これほど」というものを見当さしてもらうと。なるほど、これではおかげが受けられないことが分かってくる。
今日は、その「これほど信心するのに」というところと、ね。「これはまだ信心が足らんのじゃと思い、一心に信心していけば」と仰る。この「一心に信心していけば、そこからおかげが受けられる」と仰る。そこからおかげの受けられる一心とはどういうことをもって、一心と言うか、ということに、焦点を置いてお話いたしましたですね。
どうぞ、ほんとにこの『抱妙賀』ね。ね。私が喜べておる時にはです、その喜びは、人の助かりにも繋がる。ね。自分が喜べておる時には、人に明るいものが、光が与えられる。そういう、私は、喜びでなからなければ、ほんとうの信心の喜びではない。ただ信心しておることが自分よがりにです、ただ悦に入っておるというだけの信心では、ね。いよいよの時に役に立たないことになってまいります。ね。
いよいよ信心をほんとなもんにしていくことの為に、「これほどに」「これほど信心するのに」という「これほど」という、ない、自分の信心の内容を確かめ、そして、一心に信心をして行けば、ね。そこからおかげの受けられる一心を目指して、信心修行をさして頂かなきゃならんと思うですね。どうぞ。
明渡 孝